削除されてしまった(部分がある)ようなので、保存しといたものをアップしておきます


宮中祭祀というブラックボックス
原武史/保阪正康
正言@アリエス

http://moura.jp/scoop-e/seigen/pdf/20060417/sg060417_kyuchu_01_1.pdf

 今の天皇の、ここ十数年くらいの外遊時などの発言を聞いていると、つくづくサヨクだな、と思うんですよ。例えば、百済王と桓武天皇の母親との親戚関係を認めたり、あるいは沖縄訪問時の自分が薩摩藩の血筋を引いていることに遺憾の意を表明したりとかね。そして即位以来、護憲のメッセージを毎年新たにし、反戦という立場において一貫している。この点だけとらえてみても、昨今だったらサヨクにカテゴライズされる行動ですよ。ウヨクの側からはなかなか言えないだろうけど、その育ち方からしても、幼い頃からヴァイニング夫人の教育を受け、戦前から民主主義の何たるかということとかを学んできているわけで、そういうことを併せて考えると、現在の天皇陛下は大江健三郎とともに純粋培養の戦後民主主義の申し子といえるのではないか。右に引用したのは、浅田彰と島田雅彦の対談「天使が通る、ふたたび」(『新潮』第百一巻第九号、二〇〇四年所収)における島田の発言である。おそらくこれは、現天皇に対する、多くの人々の見方とも共通していよう。
 だが、こうした見方はあくまで、皇居の「外」における天皇像にすぎない。目を皇居の「内」に転じれば、もう一つの天皇の素顔が見えてくる。宮中祭祀を熱心に行う天皇である。二〇〇四年五月十日に「雅子のキャリアや人格を否定する動きがあった」と発言した皇太子は、六月の補足説明の文書で、皇室の「伝統やしきたり」に批判的に言及した。その背景にあるのは、宮中祭祀をめぐる皇室内部、とりわけ天皇夫妻と皇太子妃の間に横たわる温度差ではないのか。明治、大正、昭和の各天皇と比べても、現天皇ほど宮中祭祀に熱心な天皇はいなかった。この点を問題にしなければならない。
 ここでいう宮中祭祀とは、皇居内の宮中三殿で行われる祭祀を意味する。宮中三殿は、伊勢神宮の神体である八や咫たの鏡かがみの形代を安置した賢所、歴代の天皇や賢所を祀る皇霊殿、それに神殿からなり、一八八八(明治二十一)年に完成した。空襲で全焼し、戦後再建された宮殿とは対照的に、いまも当時の建物が用いられているが、宮内庁のホームページにある「皇居案内図」には宮中三殿が記載されていない。
 一九〇八(明治四十一)年には皇室祭祀令が公布され、宮中祭祀の詳細が定められた。それによれば、宮中祭祀には大きく分けて、天皇が自ら祭典を行う「大祭」と、天皇が拝礼するだけの「小祭」があり、前者は元始祭(一月三日)、紀元節祭(二月十一日)、春季皇霊祭・春季神殿祭(春分の日)、神武天皇祭(四月三日)、秋季皇霊祭・秋季神殿祭(秋分の日)、神嘗祭(十月十七日)、新嘗祭(十一月二十三日から二十四日)、先帝祭などが、後者は歳旦祭(一月一日)、祈年祭(二月十七日)、賢所御神楽(十二月中旬)、天長節祭(天皇誕生日)などがそれぞれ相当する。このほかに、月に三回行われる「旬祭」があり、昭和期から毎月一日に天皇が拝礼する習慣が確立された
 皇室祭祀令は一九四七(昭和二十二)年に廃止されるが、紀元節祭と小祭の明治節祭(十一月三日)がなくなっただけで、宮中祭祀の基本は受け継がれた。しかし、必ずしも自ら執り行っていなかった明治、大正天皇や、晩年は大半を代拝させていた昭和天皇に比べると、現天皇夫妻の熱心さがひときわ目立つ。「平成の天皇皇后は、近代の天皇皇后の中で最も宮中祭祀を厳格に務めているのではないか。天皇は二〇〇二(平成十四)年暮から半年間、前立腺がんの手術と静養で休みはしたが、それを除けば毎月の『旬祭』は、即位以来外国訪問で五回、国賓の来日と地方視察でそれぞれ一回休んだだけである。大きな祭で掌典長に代拝させたのは、一九九八年四月三日の神武天皇祭だけだ」(高橋紘『平成の天皇と皇室』、文春新書、二〇〇三年)とされるゆえんである。
 では、現皇太子夫妻は、宮中祭祀にどの程度出席しているのだろうか。原則として、大祭には天皇、皇后、皇太子、皇太子妃が、小祭には天皇と皇太子が拝礼することになっていたが(ただし新嘗祭は天皇と皇太子のみが拝礼し、皇后と皇太子妃は御所で謹慎する。また小祭でも、皇后や皇太子妃が拝礼する場合がある)、実際はどうだったのか。
 しかし、宮内庁のホームページにある天皇夫妻や皇太子夫妻の日程表には、宮中祭祀はいっさい含まれていない。このため、神社本庁の機関紙『神社新報』や、日本青年協議会の月刊誌『祖国と青年』などをもとに、一九九九年から二〇〇三年まで、天皇、皇后、皇太子、皇太子妃がどの大祭や小祭に出席して拝礼したかをまとめたのが上の表である。天皇と皇太子しか出席が確認されなかった小祭は除外した。



 資料から出席が確認されたものに〇、欠席が確認されたものに×、言及がなく、どちらか確認できなかったものに?をつけた。×の場合、その理由を括弧で記したが、二〇〇〇年六月十六日に皇太后が死去したのに伴い、それから百五十日間は天皇夫妻も皇太子夫妻も服喪に入り、喪が明けても一年間は前例にならってすべての宮中祭祀に欠席している。二〇〇〇年の神武天皇祭から二〇〇一年の秋季皇霊祭・秋季神殿祭に飛んでいるのはこのためである。
 天皇は、二〇〇二年十二月の前立腺がん手術に伴う静養のため、二〇〇三年一月から五月まで休んだのを除き、別表に掲げたすべての宮中祭祀に出席している。皇后も、一部不明なところがあるものの、一九九九年六月に実父が死去したのに伴い、同年七月の明治天皇例祭に欠席したのを除き、基本的に出席していると見てよい。
 天皇と皇后に比べると、皇太子と皇太子妃には?がかなりある。とりわけ、皇太子妃にはそれが多い。まず一九九九年九月の秋季皇霊祭から二〇〇〇年一月の孝明天皇例祭までは、元始祭を除いて出欠が確認できていない。二〇〇二年四月の神武天皇祭から翌年の神武天皇祭までの一年間も、持統天皇千三百年式年祭を除けば不明である。なお別表には掲げられていないが、二〇〇二年十二月十日に宮中三殿で行われた「皇太子皇太子妃ニュージーランド国及びオーストラリア国御訪問につき賢所皇霊殿神殿に謁するの儀」には、皇太子は出席したのに対して、皇太子妃は欠席したことが確認されている(『神社新報』二〇〇二年十二月十六・二十三日号)。
 皇太子妃は、同年六月の皇太后死去と、二〇〇一年五月の懐妊発表、そして同年十二月の内親王出産に伴い、少なくとも二〇〇〇年四月から二〇〇二年三月までの約二年間は、宮中祭祀に全く出ていない。また、帯状疱疹で入院する二〇〇三年十二月以降、今日(二〇〇四年十月現在)に至るまでも同様である。なお、秋篠宮夫妻は別表で掲げたほぼすべての祭祀に出席している。
 だが、宮中三殿に実際に上ることができるのは、天皇、皇后、皇太子、皇太子妃だけである。それ以外の皇族は、祭祀に出席しても拝礼はできない。三殿に上るには、潔斎を必要とする。四人の拝座はそれぞれ決まっていて、拝礼の順序や仕方にも細かな決まりがある。それらを間違いなく行わなければならない皇太子妃の緊張感は想像に難くない。
 現天皇は外国はもちろん、地方を訪問するときですら、宮中祭祀のスケジュールを優先させる。外国を訪れる前後にも、宮中三殿への拝礼を欠かさない。天皇が拝礼する祭祀は、年に三十回を超える。にもかかわらず、祭祀のあり方を見直すというような話は、どこからも聞こえてこない。
 皇太子妃には、天皇のこうした考え方が理解できているだろうか。もっといえば、外国での滞在が長かった皇太子妃は、神道を理解できるのだろうか。昭和天皇ですら、即位当初は皇太后(貞明皇后)から、単に自ら祭典を行うだけでは不十分で、真実神を敬わなければ必ず神罰が下ると苦言を浴びせられた。とすれば、現天皇と皇太子妃の間には、貞明皇后と昭和天皇の間よりはるかに大きな溝ができていてもおかしくはない。記者会見で堂々と、「外国訪問をすることがなかなか難しいという状況は、正直申しまして私自身その状況に適応することになかなか大きな努力が要ったということがございます」と主張する皇太子妃を、天皇は一体どう見ているだろうか。
 皇太子妃にとって、天皇や皇后を前にしての祭祀は、重圧を伴うものであったに違いない。約二年のブランクを経た二〇〇二年三月の春季皇霊祭・春季神殿祭など、その最たるものであったろう。皇太子妃の出席状況が不明な祭祀が多いので、断定はできないが、たとえ?をつけた祭祀に皇太子妃がすべて出席していたとしても、それが皇太子妃の体調に何らかの悪影響を及ぼした可能性は十分にある。
 宮中祭祀とは、誰が出席したかという基本的事実すら明かされない「ブラックボックス」にほかならない。このブラックボックスに光が当てられない限り、いま皇室内部で起こっている深刻な危機を理解することはできないといっても過言ではない。しかし一般には、冒頭で掲げたような天皇像ばかりが幅をきかせているのである。



対談(二〇〇四年十二月二十四日講談社にて)
http://moura.jp/scoop-e/seigen/pdf/20060417/sg060417_kyuchu_01_2.pdf

原:武史保阪正康今上天皇の意外な顔編集部さて、こんどは読者のために「平成皇室の謎」についておおいに語っていただこうという趣向であります。思えばここ数年、皇室関連のニュースが大きく報じられております。それは二〇〇四年五月の皇太子による「雅子のキャリアや人格を否定する動きもあった」という衝撃の発言にはじまり、十一月の秋篠宮の「(皇太子発言は)残念だ」との言葉、そして……。

保阪:天皇誕生日の「皇太子の発言の内容については、その後、何回か皇太子からも話を聞いたけれども十分に理解しきれぬところがある」という旨の文書回答ですね。編集部そうです。しかし一連の皇室報道に接していても、どうもよくわからない。なにやらもどかしい思いを抱く人は多いと思います。そのもどかしさを少しでも解くためには、いまの皇室と昭和前期の皇室を比較することが有効なのではないかと考えます。

原:『昭和史七つの謎』(講談社文庫)Part1の帯の文句に「いまだ過ぎ去ろうとしない『昭和』」というのがありましたが、皇室においてもまさにそのとおりだと思いますね。

保阪:同感です。原さんは雑誌『アリエス』二〇〇四年秋号(講談社)に「宮中祭祀というブラックボックス」という、きわめて興味ぶかい一文をご発表になられましたね。あれはこれまで誰も指摘していない重要な論点の提起だと思います。そこから話をはじめませんか。

原:そうしましょうか。

保阪:あそこで原さんは学者らしく慎重な言いまわしながら、宮中でおこなわれている祭祀にたいする認識の「温度差」が雅子妃を精神的に追いつめている可能性があることを指摘された。

原:はい。まず確認しておくべきなのは、現天皇と現皇后が祭祀にものすごく熱心だという事実です。現天皇と現皇后は、どこかの県を訪問するとか、外国訪問も含めてですが、すべてのスケジュールを宮中祭祀にあわせるんです。とにかくこれを最優先する。場合によっては、午前中に祭祀をすませて、そのあと新幹線で移動するとかいうようなことまでしています。

保阪:ちょっと意外ですね。一般的に現天皇は、ヴァイニング夫人に教育を受け、即位のさいには「日本国憲法を守る」と発言したように、ある意味でリベラルな「戦後民主主義の申し子」だと思われていますよね。最近では園遊会で、日の丸・君が代の強制は望ましくないと、棋士で東京都教育委員の米長邦雄さんをやんわりたしなめた。

原:しかし、それは外に見せる顔であって、もうひとつの内側の見えざる天皇というものをもう少しきちんと見ないと、いま皇室のなかで起こっていることはなかなか理解できないのではないかと思うんですよ。

出欠表をつくってみると
原:それでね、『アリエス』に掲載した「天皇、皇后、皇太子、皇太子妃の宮中祭祀出欠表(一九九九年から二〇〇三年まで)」に秋篠宮夫妻の出欠も加えて、よりくわしいものをつくってみたんです(一六.一七ページ参照)。大祭に当たる祭祀だけを掲げましたが、女性皇族が出席できない新嘗祭のような祭祀は除外しました。

保阪:どんな資料をお使いになったんですか。

原:宮内庁のホームページにある天皇夫妻や皇太子夫妻の日程表には、宮中祭祀についての記載はいっさいありません。なので『アリエス』の段階では神社本庁の機関紙『神社新報』や、日本青年協議会の月刊誌『祖国と青年』などをもとにしました。その後、『わたしたちの皇室』およびこれを改めた『皇室』という雑誌に、天皇、皇后、皇太子、皇太子妃だけではなくて、秋篠宮とかほかの皇族の動静も書いてあることがわかりましたので、それを使いました。ただ、これも現天皇の在位十年を記念して創刊された雑誌なので、それ以前についてはわかりません。
保阪:それは残念。

原:この出欠表を見るとわかりますように、天皇は二〇〇二(平成十四)年十二月の賢所御神楽の儀までは全出席なんですね。即位してから十年近くも皆勤です。一九九八(平成十)年四月の神武天皇祭で初めて休んだんです。それはたしか風邪をこじらせたか何かの理由。後で触れるように、昭和天皇も最晩年まで祭祀にはこだわりますが、現天皇の祭祀にたいする熱心さは非常に突出していると思います。

保阪:二〇〇一(平成十三)年は他の年に比して儀式の数が少ないようですが。
原:それは香淳皇后の服喪のためです。二〇〇〇(平成十二)年六月に死去しましたので、それから一年間は祭祀に出席していません。

保阪:なるほど。その翌年の二〇〇二年末に天皇が前立腺がんであることが発表になって、二〇〇三(平成十五)年一月十六日に東大附属病院に入院、翌々日の十八日に前立腺の全摘出手術をして二月八日に退院しています。六月の香淳皇后三年式年祭には出ているわけですから、退院後四ヵ月での祭祀復帰はたしかに熱心といえますね。しかもその後はずっと皆勤になっている。それと表を見ますと、美智子皇后の動静も興味ぶかい。

原:天皇の入院・療養中、一月から五月まで皇后は皆勤です。そもそも皇后は、一九九九(平成十一)年七月にお父さんの正田英三郎さんが亡くなって服喪していた例を除けば、ほとんどすべて出席しているんです。

保阪:なるほど、ご夫婦そろってほぼ皆勤ですね。かたや皇太子と雅子妃なんですが……。

原:皇太子は二〇〇二年一月の孝明天皇例祭と十二月の賢所御神楽の儀には欠席しています。皇太子妃は表をご覧ください。たとえば二〇〇二年十月の神嘗祭以降、二〇〇三年一月七日まで四回連続して欠席なんです。

保阪:神嘗祭、賢所御神楽の儀、元始祭、昭和天皇祭。

原:この四回がなぜ欠席なのか。その前の二〇〇一年から二〇〇二年にかけての欠席は懐妊、内親王出産後しばらく静養していたということで説明できる。しかしこの四回の欠席理由は、皇太子とともにニュージーランドを訪問した二〇〇二年十二月の賢所御神楽の儀を除いてわからないんですね。しかも秋篠宮はこの賢所御神楽の儀に出ている。

他の皇族は
保阪:秋篠宮夫妻はずいぶん熱心に出席していますね。

原:そうです。他の皇族でいちばん熱心なのは秋篠宮夫妻と紀宮。次いで常陸宮夫妻。三笠宮家は必ずしも熱心ではない。

保阪:お父さんの崇仁殿下?それとも寛仁殿下?

原:オリエントのほうの三笠宮は高齢のせいもあるのでしょう、あまり出てこない。ヒゲの寛仁さんだって、秋篠宮に比べれば明らかに頻度は落ちます。桂宮は病気だからもう全然出てこられない。むしろ亡くなる前の高円宮夫妻の方が熱心に出席していました。

保阪:庶民でいえば、さしずめ法事に兄夫婦が欠席で、弟夫婦のほうはよく顔を出しているということですか。

原:まあ、そんな感じかもしれません。通常ならば当然出席しなければならないはずの祭祀に、この時期は欠席をしている。ともかく表全体の傾向として、皇太子妃は年があらたまる前後の時期、つまりその前の年の十一月ぐらいから一月ぐらいにかけて、言葉はわるいんですがどうも「休みぐせ」がついているように見える。からだのリズムができてしまったのかなという感じがするほどです。

保阪:帯状疱疹で入院したのもやっぱり二〇〇三年の十二月でしたね。

原:そうです。これ以降、皇太子妃は長期の静養に入り、祭祀にはまったく顔を出さなくなります。皇太子妃は、だんだん年が押し詰まってくると、体調がすぐれなくなる傾向があるような気がします。たしかに十二月から一月にかけてはわりと行事が多い。内親王の誕生日もある。自分の誕生日もある。いうまでもなく天皇誕生日もあるし、一般参賀もある。心身ともに疲労してもおかしくはない。

保阪:行事、行事の連続でたしかにたいへんですよ。

入院中に何かが起きた!?
保阪:さて、いまのデータをもとに、原さんは重大な示唆をなさっていますよね。「天皇入院中に何かが起きた!?」と考えられる……。

原:いや、そこまでは(笑)。

保阪:ぼくはジャーナリズムの側にいる人間だから、学者の原さんのいいにくいところをズバリいえば(笑)、天皇不在中に、祭祀になかなか出てこない皇太子妃にたいする不満を、皇后が皇太子に向かってぶつけていた可能性がある。美智子皇后は皇太子を場合によっては..責したのかもしれないですね。

原:天皇が入院、療養しているあいだのすべての祭祀に皇后と皇太子は出席していますが、皇太子妃は一月の元始祭と昭和天皇祭、三月の春季皇霊祭・春季神殿祭、五月の開化天皇二千百年式年祭に欠席していることは事実です。

保阪:この間は皇后と皇太子だけでおこなっている祭祀がわりと多い。下世話にいえばもともとお嫁さんがなにかの理由で欠席がちで、舅と姑と息子で儀式をおこなっていたところに舅が入院というわけだ。俗なことをいいますが、天皇は雅子妃にたいして、それまでものわかりがよかったということなのかもしれませんね。

原:天皇のほうが、この表を見ていると少し寛大だったのかなと。私の印象はそうです。その天皇が病気で不在になって、祭祀において皇后にかかってくる比重が当然大きくなるわけでしょう。その傍らに皇太子しかいないというような、明らかに二〇〇二年までとは違った状況になったときに、皇后と皇太子のあいだに、なんらかの感情的なやりとりのようなものはなかったか。もちろん、これはひとつの推測にすぎませんが。

保阪:このことについて、皇室ジャーナリストのだれもきちっと書いていないんでしょう?

原:書いていません。ぼくは、皇室を論ずる場合、宮中祭祀の問題は非常に重大、重要だと以前から思っているんです。祭祀においては、秋篠宮とかそれ以外の皇族は後ろに控えているだけです。じっさいに大祭で宮中三殿に上って拝礼をおこなうことができるのは、天皇、皇后、皇太子、皇太子妃の四人だけなのです。

保阪:いちおう宮中三殿を説明すると……。

原:伊勢神宮の神体である八咫鏡の形代を安置した賢所、歴代の天皇や皇族を祀る皇霊殿、それと神殿です。皇居の南西、宮殿の裏手にありますが、ここは天皇家にとっての聖域であり、そこに上る者には大きな責任のようなものがある。それを二人だけでおこなわなければならない。美智子皇后がそれを重く感じたことはまちがいないでしょう。

保阪:「自分は宮中入りして以来、こんなにがんばってきたのに」と思ったかもしれない。そういう感じは受けますよね。

原:ここで思い出されるのが、昭和初期の昭和天皇と母の貞明皇后との関係なんです。

保阪:貞明皇后が、昭和天皇にたいして「ほんとうに神を敬わないと神罰があたるぞ」といった話ですね。

原:そうです。おうおうにして、外から旧家に入って、もともとのメンバー以上に熱心にイエのまつりをするようになった母親というのは、イエの本来のメンバーである子どもにたいして、かなり率直に、ストレートに不満をぶつけることがある。

保阪:一種の過剰同調というのかな。まさに日本最古の旧家だからね。

原:貞明皇后にいわせれば、祭祀とはまちがいなくおこなうだけではダメなんです。そのぐらいはできて当然。そこにプラスして「祈る」という行為のうちに、ほんとうにアマテラスなり皇祖皇宗を畏れる気持ちがあるかどうかが大事であって、昭和天皇にはそれがないと..ったわけです。その背景にあったのが、大正天皇の病気が悪くなるとともにのめり込んでいった、筧克彦ひこのいわゆる「神ながらの道」でした。

保阪:貞明皇后は大正天皇が亡くなったあと、ある一室に、ほとんどだれも入れないで大正天皇の遺影を置いて会話をし、心を通わせていたという。ある意味で尋常でない空間かもしれませんね。そのような志向をもっている人だから、彼女にとっては、礼拝の式のひとつひとつの行動のうちに、それが真剣かどうか、彼女なりに見抜く目があるわけでしょう。あれはたんなる形式だけではないか、心がないではないか、敬うものがないではないかと。だけど考えれば、それはかなり主観的ですよね。

原:そのとおりです。ですから『対論昭和天皇』(文春新書)でもひとつの推測をいいましたが、なぜ貞明皇后が「神ながらの道」や祭祀にのめり込めたかというと、ひょっとしたら彼女は努力すれば自分がアマテラスになれるかもしれないというような気持ちがあったのではないかと思います。天皇の場合は、皇后のように努力を重ねてそこまでのぼるということをしなくても、生まれながらにして「神々の子孫」です。そういう資格をもった存在であるにもかかわらず、神々というものをきちんと実感しないで祭祀をおこなうなんていうことは許せないというか、貞明皇后には考えられないわけですよ。そこから息子の昭和天皇にたいして強い態度に出てくるわけです。

保阪:宮中祭祀への熱心さということをめぐる力関係において、少なくとも主観的には貞明皇后のほうが昭和天皇より上位にあったということになりますね。

原:そうですね。のちに昭和天皇は神器に執着するようになっていくのですが、それも貞明皇后の感化ということがどうしても考えられるわけです。昭和天皇がさしたるきっかけもなく、あれだけ生物学の研究に熱中していたのに、それをだんだん振り捨てて神に祈るようになるというのは、自力でというか、自発的にそうなったというよりは、貞明の感化を受けて、しだいにそうなっていったというほうが……。

保阪:納得しやすい。

原:そうです。理解がしやすいんです。「祈る」ということ

保阪:いまの美智子皇后は貞明皇后の置かれていた立場に近いのかもしれない。皇后は祭祀を何年もおこなっているから、祈りが本物か見抜く力がある。しかるに皇太子妃は見抜くも見抜かないもなくて、そもそも祭祀の席に来ない。

原:そう、来ないんです。それに出席したとしても、問題はその先ですね。まちがいなく拝礼ができるようになったとしても、プラス、そこに畏れる、さっき神罰といいましたけれども、そういうものをちゃんと認識できるか否かというところが問われているのですから。
保阪:その点が大きな壁なのではないでしょうか。

原:そう思いますね。それでね、「祈る」ということがどういうことなのか、美智子皇后は皇后なりにたぶんわかっていると思うんです。

保阪:美智子皇后は聖心女子大を出ていて、カトリックで、クリスチャンじゃないかということで一時期は皇族たちに疑いの目で見られたこともありました。宮中には、一方でキリスト教人脈もあるように思いますし……。

原:祈る対象はカトリックの神ではなくなったけれども、祈るという行為そのものにたいする順応性はもともとあったと思うんですよ。もちろん、対象は皇祖皇宗、いわば歴代の天皇であり、八咫鏡であり、アマテラスであるわけだけれども、そういうものに向かって祈りつづけるということが、同時に国民の平和を祈るということでもあるという、合理的な説明ができないけれども、それを受け入れる素地、素養というものが皇后にはあったのではないか。高橋紘によれば、皇后は若いころ、「皇室は祈りでありたい」と語っていますし、元東宮大夫の鈴木菊男には、ある事態が起きたとき最上の解決法を決めるのは「国の叡知」だが、皇室の役目は「善かれかし」と祈り続けることではないかと話したそうです。それにたいして雅子妃の場合は、たしかに田園調布雙葉学園は出ているけれども、少なくとも大学はハーバードとか東大にいって、そういう意味では西洋近代的、合理主義的な考え方を身につけているのではないか。そこは美智子皇后と、育った環境も違うし、その志向性も相当違うのではないかという印象を、ぼくはもっているんです。雅子妃の場合に、なぜこのような祭祀をするのか、いくら考えてもたぶん理解できない。理解できないことを、どうしてこんなに繰りかえし繰りかえしおこなわなければならないのか。どこかでそれに、どうしても耐えられないというか……。たぶん、祭祀の拝礼のしかたひとつとってもかなり細かい決まりのようなものがあり、天皇がまずそれをおこない、そのあと皇后がおこない、それから皇太子夫妻が二人でおこなうのでしょうけれども、順序からして、皇太子妃が、周りから見られているなかで身体作法にきちんと則ってやるということの、つまり、ある種の権力空間に身を置くことの苦痛というのは、かなり大きかったのではないでしょうか。

保阪:それがからだに出てくるというわけですか。口には出さないけれども。

原:もちろん推測ですよ。

保阪:しかし皇室行事の重要性について、雅子妃は結婚する前にいろいろ聞いているはずでしょう。それを彼女自身が認識していないのか、あるいは皇太子が、疲れているなら休んでいいよというかたちで、言葉はわるいけど少々甘く考えているのか。たしかにそのような推測をする向きもあります。

原:皇后から見ると、もしかすると、ナアナアでやっているように見えるのかもしれないし、天皇もひょっとしたらそういうふうに考えていたのかもしれない。

保阪:こうなってくると、いまの天皇の祭祀への姿勢がなおさら気になってきますね。父・昭和天皇がおこなっていたことを手本にしているのか。あるいは、これだけは必ずおこなえよと父から固くいわれていたのか。そのへんが知りたいところですね。当然、昭和時代は昭和天皇夫妻が祭祀をおこない、現天皇夫妻は皇太子夫妻として参加していたわけです。

保阪:香淳皇后からキツイことをいわれたりしたのかしら。昭和三十四(一九五九)年のころの、香淳皇后と美智子妃の関係や、天皇と皇太子の祭祀をめぐる事情を調べたらいいかもしれませんね。当時のそれぞれの祭祀出席率がわかるとありがたい。たぶんきちんと出ていたんでしょう。

原:昭和天皇の侍従長だった入江相の日記などにあたれば、もちろん記録はあります。だけど、その日に祭祀をおこなった、天皇が来たというところまでは書いてあるけれども、皇后や皇太子や皇太子妃はどうだったかというところまではあまり書いていない。そこまではたぶん厳密にはわからない。ただ、入江日記には祭祀のあり方をめぐって、昭和天皇と香淳皇后の間にも温度差があったことが示唆されています。それが表面化するのは、入江が「魔女」と呼んで毛嫌いする女官の今城誼よし子の記述が目立つ一九六〇年代から七〇年代にかけてです。今城はもともと貞明皇后に仕えていた女官で、貞明皇后と同様に敬神の念が厚く、祭祀をおろそかにするのを何よりも嫌っていました。香淳皇后も今城を可愛がりますが、それは香淳が今城に感化されることでもありました。入江は天皇夫妻がしだいに高齢化してきたのに伴い、体力を要する祭祀を代拝にして負担を減らそうとし、天皇からは了解を得ますが、そのたびに今城の抵抗にあい、皇后も「日本の国がいろ..をかしいのでそれにはやはりお祭りをしつかり遊ばさないといけない」(『入江相政日記』一九七〇年五月三十日)と発言するなど、難色を示すのです。入江によれば、今城は「真の道」という教団に出入りしていました。聖徳太子を「聖の君」として仰ぎ、日鏡・月晶・神剣を神器として奉斎する教団です。ただし河原敏明は、『昭和の皇室をゆるがせた女性たち』(講談社)のなかで、これを入江の独断として否定し、今城が入信したのは「大真協会」という別の団体であり、実は皇后も信者であったという驚くべき説を紹介しています。まるで『対論昭和天皇』でも取り上げた松本清張『神々の乱心』の戦後編のような話ですが、実はこの説は一九八三(昭和五十八)年の『週刊新潮』にすでに出ており、それを真っ向から否定する入江の談話も掲載されています。なお大真協会という団体はホームページもなく、実態がつかめません。結局、今城誼子は入江ばかりか天皇からも嫌われ、一九七一(昭和四十六)年に罷免されます。『昭和の皇室をゆるがせた女性たち』には、皇后が今城を「良き時期に再任」すると確約した直筆の手紙が掲載されています。しかし皇后の思いもむなしく、今城は再任されませんでした。そして皇后の痴呆が目立ちはじめるのは、ちょうどこのころからなのです。天皇は皇后のただならぬ様子に、明らかに動揺し、「お口のパクパク」が激しくなります。いったんは了解した祭祀の簡略化に天皇が難色を示すようになるのも、それが影響しているのかもしれません。ひょっとして昭和天皇は、大正天皇の脳の病気が進んだときに「神ながらの道」にのめり込んでゆく貞明皇后の心境を、このとき初めて理解できたのではないでしょうか。

保阪:スゴイ話だ。やはり宮内庁には実録を早く完成してもらいたいですね。

原:まったくです。宮内庁は知らせたくない

保阪:宮中でどのような祭祀がおこなわれているか、その具体的内容は、いまだ充分に公開されてはいないわけですよね。

原:そうです。高橋紘のような、宮内庁に長らく詰めたジャーナリストや、侍従長や侍従のような側近が多少書いてはいますが、基本的にはまったくのブラックボックスです。唯一の例外は、皇居東御苑でおこなわれた一九九〇(平成二)年十一月の大嘗祭で、一部が公開されたことぐらいでしょうか。

保阪:天皇家の私的な領域にわたるというわけですね。当然、憲法上の国事行為ではない。

原:はい。宮内庁は宮中祭祀についてまったく公開していないんです。象徴的なのは祭祀のおこなわれる場所である宮中三殿の扱いです。宮内庁のホームページには「皇居案内図」が載っていますが、宮中三殿が皇居内のどこにあるのかまったくわからない。みごとなまでにその位置が抹消されているんです。それから先ほども少し触れましたが、同じホームぺージには、天皇夫妻や皇太子夫妻の日程が公開されています。クリックすれば日々の細かいスケジュールが出てきますが、そこにはひとつとして祭祀に関するものはない。宮内庁は、とにかくこれをひた隠しにしているかというか、知らせたくないようなんです。

保阪:知らせたくないというのは、内部でいろいろな齟齬をきたしている側面があるということを間接的に認めているというふうに解釈してもいいんでしょうか。
原:そういう見方もできると思います。

保阪:政府としてはホントにやっかいですね。これは大喪の礼のときに噴出した問題と同じです。あのときも私的領域と公的領域とを分けたじゃないですか。冷たい雨のなか幔幕のようなものをバラッと垂らして、ここから先は天皇家の私的領域だとした。

原:宮内庁は、できればああいったアクロバティックな論理をもち出さずに、そっとしておきたいのでしょう。
保阪:おそらくそうでしょうね。ところで、祭祀の具体的内容については、うかがい知れぬことが多いとは思いますが、たとえば着るものなどについてはいかがでしょうか。まさかモーニングでということはないでしょうけれど、衣冠束帯なのか、それともなにか白装束のようなものを着して、精進潔斎して儀式を執りおこなうのか。

原:昭和聖徳記念財団から出た『昭和を語る』という本に、昭和天皇に仕えた卜部亮吾という侍従が皇室祭祀について語っているんですが、天皇は祭祀では黄櫨染の御袍を着ることが非常に多いとあります。黄櫨染というのは黄櫨で染めた上に蘇芳を重ねた特殊な染色で、この色の衣装は天皇だけのものだといいます。祭によって装束が違うらしいんですが、だいたいは黄櫨染御袍を召して自ら祭典をおこなったり、三殿に拝礼する。これはたぶんいまも踏襲されているのではないかと思うんですよ。それから儀式の前には潔斎をするといいます。

保阪:それは天皇、皇后、皇太子までですか。

原:皇太子妃もです。掌典長や侍従を含め、宮中三殿に上るには必ず潔斎をしなければなりません。
保阪:祭祀のさい、秋篠宮以下の皇族は後ろに立っているだけなんですね。

原:もちろん。じっさいに三殿に上って拝礼をするとか祭典をおこなうとかいうことはないので、潔斎をする必要もありません。それから大祭に関していうと、いつもではないのですが、内閣総理大臣、衆参両院議長、最高裁長官といった三権の長が出席する場合がある。記録を見ると、小泉純一郎首相が出席しているケースもあります。
保阪:なるほど。だとすれば政治家の日記などにあたってみると新しい発見があるのかもしれない。

原:そうですね。この点で面白いのは『佐藤栄作日記』です。佐藤は一九六四(昭和三十九)年から七二(同四十七)年まで首相の座にありましたが、この間に春季皇霊祭・神殿祭と秋季皇霊祭・神殿祭、それに新嘗祭にはほぼ欠かさずに出席しているんですね。ケネス・ルオフは『国民の天皇』(共同通信社)の中で、「師の吉田茂同様、天皇の歓心を得ようとする佐藤の努力は涙ぐましいほどだった」と指摘していますが、祭祀への出席もこうした努力の一環だったのかもしれません。
保阪:ぼくは政治家、とくに首相体験者は後世への責任として、必ず記録を残すべきだというのが持論で『政治家と回想録』(原書房)という本まで書いたのですが、いまの原さんのお話に関していえば、たしかに佐藤栄作の日記などを読みなおし、入江日記などと突きあわせてみる作業が必要なのでしょうね。

原:おっしゃるとおりです。

保阪:しかし、宮中祭祀に三権の長が出席しているとなれば、政教分離原則からしても微妙な問題をはらんできますね。国事行為、準国事行為(公的行為)、私的行為のうち、準国事行為とみなしうる。

原:おそらく公的行為に含まれると解釈できるのではないでしょうか。しかし宮内庁としては、政教分離原則に抵触するかどうかということもありますが、それよりもこれまで指摘した宮中祭祀をめぐる皇室内部の確執というもののヒント、示唆を与えかねないことを怖れているのだと思います。「公務」と「伝統やしきたり」とのあいだ
保阪:なるほど。説得力はありますね。この観点からすると「公務というのは、かなり、受け身的なものであるのではないか」との秋篠宮発言は俄然べつの意味を帯びてきませんか。

原:ぼくは「公務」といった場合に、国事行為には入らないけれども、三権の長が出席をすることもあるものを、それをたんなる天皇家の私的な行事といいきれるだろうかと思うのです。ちなみに、今年出された自民党の憲法改正に関する「論点整理(案)」では、天皇の祭祀などの行為を「公的行為」と位置づける明文の規定を置くべきであるとされています。

保阪:少なくとも秋篠宮が認識する「公務」の内容には、宮中祭祀が含まれるというのが原さんの推理ですね。

原:ぼくにはそう読めたんですよ。しかも宮中三殿でどんなことをおこなっているかといえば、当然、皇祖皇宗、あるいは歴代天皇に向かって祈っているわけです。なんのために祈るかというと、五穀豊穣と国民の平安。「民安かれ」と祈るということは、そこでパブリックなものとつながっているともいえる。天皇家の私的な行事は結果的には国とか民というものにつながるとの認識をもつ者にとって、それは「公務」であるといっても、けっしておかしくはないと思うんです。

保阪:どうも兄と弟のあいだで「公務」の意味あいが食い違っているようですね。秋篠宮のいう「公務」は、もしかしたら皇太子のいう「伝統やしきたり」なのかもしれない。

原:そうなんです。二〇〇四年六月八日の皇太子の説明文書にはこうあります(編集部註:表記等は読みやすくあらためてあります)。(五月の人格否定.発言のあった)記者会見以降、これまで外国訪問ができない状態が続いていたことや、いわゆるお世継ぎ問題について過度に注目が集まっているように感じます。しかし、もちろんそれだけではなく、伝統やしきたり、プレスへの対応等々、皇室の環境に適応しようとしてきた過程でも、たいへんな努力が必要でした。私は、これから雅子には、本来の自信と、生き生きとした活力をもって、その経歴を十分に生かし、新しい時代を反映した活動をおこなってほしいと思っていますし、そのような環境づくりがいちばん大切と考えています。国民の多くが気にしているお世継ぎ問題にすぐ続けて、「伝統やしきたり」が出てくる。ぼくはあの言葉を素直に額面どおりに受け取ればいいと思っているんですよ。だから『アリエス』にも「(皇太子は)『伝統やしきたり』に批判的に言及した。その背景にあるのは、宮中祭祀をめぐる皇室内部、とりわけ天皇夫妻と皇太子妃の間に横たわる温度差ではないのか」と書いたんです。

保阪:つまり「伝統やしきたり」という言葉はストレートに「祭祀」と理解していいということですね。

原:ぼくはこれを書いたときにそう解釈しました。

保阪:原さんのお考えをずっと突きつめていくと、天皇家のなかに、いまいろいろと垣間見える対立というのは、一過性の家庭内のいざこざではなくて、かなり本質的な対立だということになりますよね。天皇制、天皇家のありかた、天皇のありかたまで含めて。

原:ええ。現天皇夫妻は、そういう意味でたぶん昭和天皇とかなり連続していて、祭祀を繰りかえしおこなうということが、おそらく、神武以来、アマテラス以来、連綿と受け継がれてきた皇統というものを維持する究極のよりどころといいましょうか、自分たちのアイデンティティを確認するためのよりどころであると。それはいくら時代が変わろうが、とにかく変わらないものとして受け継がれていかなければいけないと考えていると思うんです。

保阪:ぼくは、明あき仁ひと天皇自身が―これは美智子皇后も同様ですが―天皇家というのは時代とともに変わるんですとしばしば述べていたことを考えあわせますと、やはりあの方は新しいタイプの誠実な天皇だと思いますね。時代とともに変わるということは、天皇のもつオモテの、国民に見えている顔というのは固定したものがあるのではないことを意味する。制度として固定したものはいちおうその時代、時代であるんだろうし、それにしたがって動くのだけれども、しかしそのウラの見えないところにある祭事は本質的に変わらないのだとするなら、いまの天皇はたいへんな努力を重ねてきているということですよね。

原:そうだと思いますね。

保阪:市民的な社会のなかにいて、祭祀の伝統のなかにいる。天皇の祭祀王としての性格を内にまもりながら、一方で時代に即応していく。けっして分裂しないで、そこへひとつの融合する機能性をもたせる。それが「国民の象徴」「国民統合の象徴」ということなのか……。なにか強い覚悟のようなものを感じますね。

原:現天皇はその使い分けということをすごく認識しているのではないかと思います。もっとも、毎日地方に行って恵まれない人びとを直接励ますわけにはいかないから、宮中で祈るのだと解釈すれば、皇居の「外」と「内」でやっていることは矛盾しないという見方もできますが、いずれにせよ非常にうまくやっているように思われます。それにひきかえ皇太子妃は……。

保阪:耐えられない……。

原:というか、そういうダブルスタンダードを設けること自体が非常に苦痛なのではないか。「伝統やしきたり」に適応しようとした皇太子夫妻のこれまでの努力が、天皇夫妻には必ずしも理解されていないのは、「皇太子の発言の内容については、その後、何回か皇太子からも話を聞いたのですが、まだ私に十分に理解しきれぬところ」があるとの天皇の文書回答からもうかがえるといったら、うがちすぎでしょうか。皇太子の戦略

原:皇太子夫妻は国民世論を味方につけながら、場合によっては大なたを振るって、これまでの伝統と決別して、むしろ新しい伝統みたいなものを自分たちでつくっていくといいましょうか、そういうほうに賭けているのではないかという感じがするんです。

保阪:それは女性天皇問題を含めてですか。

原:むろんそれもあります。いまのところ世論は圧倒的に女性天皇容認に傾いています。べつに男じゃなくてもいいじゃないか、と。

保阪:皇統の連綿性というものは、いまや二の次になっている……。

原:たとえば二〇〇四年九月二十四日に、東宮御所の内部や、自分たちの内親王にたいする教育ぶりをビデオで公開したじゃないですか。あれはまた好感を呼んだと思いますけれども……。

保阪:絵本を読みきかせたり、皇太子の肉声も入って「よきパパぶり」を示した。しかし、私はああいうことはしなくてもいいと思う。

原:ひたすら自分たちは、そのへんにいる一市民というか、ふつうの家庭と同じであるというようなイメージを演出して、垣根を取っ払って、まさか自分たちが突然着替えて、皇居の奥深くで恭うやうやしくぬかづいて拝礼しているというようなことを国民にはみじんも想像させない。

保阪:オランダやベルギーの王室のような感覚ですよね。

原:そっちの方向で演出したいんじゃないかと思います。それによってむしろ皇室の存在というものを人びとに認識させて、皇室をより安定させていく。
保阪:それはある意味で危険な考え方ではありませんか。

原:そう考える人も多いでしょうね。だけど少なくとも主観的には、皇太子夫妻はそう考えているのではないかとぼくは見ます。

保阪:現段階において、それは成功しつつあるのかもしれない。

原:短期的に見ればね。しかし長期的に見てどうか。それは、皇室そのものの廃絶にいたる道かもしれない。

保阪:うーん。その危険性を含んでいると、私も思う。ともあれ皇太子はそういう自分の「改革」のパートナーとして雅子さんを選んだのかもしれませんね。だから「全力でお守りする」と。

原:雅子さんはそれを理解して宮中に入った。おそらくほんとうに皇太子といっしょになって変えたいと思ったと思うんですね。ところが、それは自分の想像をはるかに超えるような巨大な壁だった。それに気づいて打ちのめされたというか、それがある種の精神的な混乱をひき起こしているのではないか。

保阪:雅子妃は、自分の心身が不調になることで、はじめて皇后になるということの怖さを知ったのかもしれませんね。

原:ここでも昭和史が参考になります。昭和天皇が二十代のとき、貞明皇后とのあいだに相当な確執があったことは、さきほどお話ししたとおりです。とくに摂政宮となる直前、一九二一(大正十)年の三月から九月にかけてヨーロッパを訪問し、それこそむこうの王室に刺激を受けて帰ってきて、いきなり改革に乗り出したわけでしょう。女官をお側に置くのを廃止するとか、明治以来の一夫多妻の源になっているような古いしきたりを排そうとするわけです。

保阪:それにたいして貞明皇后は欧風化する王室には立ちはだかって頑強に抵抗している。もっとも側室制度の廃止は当然と思っていたでしょうけれど。

原:そうです。つまり、皇太子というのは、そういう意味でいつの時代でもといったら言いすぎでしょうが、時代にあわせて皇室を革新させようとする存在であり、それにたいして皇后や皇太后というものは伝統を守ろうとするものなのかもしれません。

保阪:しかし、その結果どうなるかが問題です。

原:はい。では昭和天皇のときはどうだったか。それは先にも触れたように、昭和初期には皇太后となった貞明皇后にきちんと祭祀をおこなわなければ神罰が下ると言われて神器に固執するようになり、一九六〇.七〇年代には今城誼子に感化された香淳皇后を思うあまり、祭祀の簡略化に抵抗しているように見えます。その意味で昭和天皇は、皇太后や皇后に振り回されているように見えなくもない。今回はどうなのか。いま、皇太子夫妻ががんばっているわけですが、もし歴史が繰りかえすのであれば、けっきょくは雅子妃にも敬神の念が芽生え、現天皇夫妻のように祭祀を熱心におこなうようになっていくのか、それともあくまでも彼らが押しきって、まったく新しい皇室をつくっていくのか。兄宮と弟宮の微妙な関係

保阪:しかしですよ、秋篠宮家に男子が誕生した瞬間に、いままでの話はどこかにすっ飛んでしまいますよね。現行の皇室典範どおりにいけば、皇太子は即位しても一代かぎり。次の皇位は弟宮の家にいく。

原:そうです。女性天皇論なんかどうでもよくなっちゃうんです。これまでの懸念はぜんぶ消えるし、宮中三殿も宮中祭祀ももちろんそのまま維持できる。ですから湯浅利夫宮内庁長官の「秋篠宮家に第三子の出産を希望したい」という発言はホンネだと思いますね。

保阪:あれもすごいセリフだ。暗に皇太子夫妻は批判されていることになる。ところで、昭和史の単純な事実なんですが、昭和前期においては兄宮である昭和天皇も弟宮(秩父宮・高松宮・三笠宮)もみな若いんです。

原:しかも兄宮にはまだ世継ぎがいないし、弟宮にも子はいない。現天皇の誕生は一九三三(昭和八)年ですからね。

保阪:しかし、けっきょく秩父宮と高松宮にはお子さんが生まれず、そして二〇〇四年十二月十八日に高松宮妃の喜久子さんが亡くなったことでついに両宮家とも断絶した。

原:陸軍の一部には根強い秩父宮待望論があって、昭和天皇と秩父宮の関係は微妙でした。貞明皇后は、昭和天皇よりも秩父宮の方を.愛していたという話もあります。いまの日本で二・二六事件のようなことは起こりようがないけれども、秋篠宮家にもし男子が生まれた場合に東宮家と秋篠宮家の立場が逆転する可能性はあります。そのとき世論はどう動くか。

保阪:世論は秋篠宮家のほうになびく流れに変わるかもしれない。しかし、現状では国民世論は「女性天皇容認」の方向にあるようですが……。

原:秋篠宮は二〇〇四年十一月の会見で、五月の皇太子発言について「残念だ」と述べたあと、第三子についてはこう述べています(編集部註:表記等は読みやすくあらためてあります)。……(宮内庁の湯浅)長官が「皇室の繁栄」と、それから、これは意外と知られていないように思いますが、「秋篠宮一家の繁栄」を考えたうえで「三人目を強く希望したい」ということを話しております。宮内庁長官、自分の立場としてということですね。そうしますと、私が考えますに、そのような質問があれば、宮内庁長官という立場として、それについて話をするのであれば、そのようなことを言わざるをえないのではないかと感じております。しかし、男子誕生となれば、それは「秋篠宮一家の繁栄」もさることながら、その子は即座に皇位継承者なのです。

保阪:やはり女性天皇容認論の高まりにたいして「ちょっと待て」といっているように聞こえるし、長官にたいしては「よし、わかった」とも聞こえてしまう。兄宮と弟宮との関係はむずかしい。

原:昭和天皇は秩父宮にだけでなく、高松宮にたいしても非常に警戒心を抱きますよね。

保阪:戦時中のことでしょうか。そのときは、高松宮は海軍軍令部にいた。しかし昭和天皇は高松宮の意見をあまり評価してなかったんじゃないですか。

原:阿川弘之さんに怒られますよ(笑)。

保阪:高松宮は一九四一(昭和十六)年十二月一日でしたか、最終的に対米開戦を決めるときに、兄の天皇のところに行く。そして「海軍は開戦にみんな反対している」というので、天皇はびっくりして、軍令部総長の永野修身海軍大臣の嶋田繁太郎をもう一回お召しになる。海軍上層部は「いや、そんなことございません」。それで、どうも高松宮のそそっかしさというんですか、そういうものにたいしては距離をおくというのか、不信の念を抱くようになったように私は思いますね。

原:そうですか。しかし一九四〇(昭和十五)年十一月十一日、紀元二千六百年奉祝会が宮城前広場でおこなわれたとき、高松宮が前に出てきて「天皇陛下万歳」の発声をやります。あれはフィルムも残っていて、ぼくも川崎の市民ミュージアムで見ましたが、掛け声のしかたといい、じつにみごとなものです。それを聞いた何人かの日記には「御力強い御声」「実に御立派であった」などと書いてあって、感銘を与えたようです。そういう押し出しのよさはあったのではないでしょうか。

保阪:細川護貞の『情報天皇ニ達セズ』(『細川日記』)を読むと、戦争末期に高松宮は、危ない連中とも接触していますね。東條暗殺もやむなしというような企てにもコミットしています。そのあたりも昭和天皇の不信をつのらせたかもしれない。
原:戦後も昭和天皇は高松宮を警戒していて、占領期に退位論がかまびすしかった時分には、自分が退位すれば、当時まだ少年だった明仁の摂政として高松宮が力をふるおうとする野心があるから、それはできないと考えていたふしがありますよね。天皇の気魄

原:話を宮中祭祀に戻しますと、明治天皇も、大正天皇も、晩年はみずからはおこなっていないんですよ。大正天皇に関しては、体調が悪化する一九一九(大正八)年からほぼやっていないということは、この前公開された実録で確認できました。昭和天皇は先に触れたように、一九七〇年代以降に入江相政が進める祭祀の簡略化に抵抗しますが、それでもすべての祭祀を型通りにおこなっていたわけではありません。年をとるにつれ朝早い儀式とか、ほんとうに寒いときの儀式などは、しだいに時間を遅らせたり、代拝させるようになっていきます。

保阪:水をかぶったりしなきゃいけないんでしょう。

原:そうです。冷暖房とか基本的にないので、やっぱり冬は寒いし、夏は暑い。水を浴びる場合に、冬はちょっとあったかくするとかはあったようですが。入江日記には、一九六九(昭和四十四)年七月に賢所に冷房を入れようとして、天皇からは許可を得るものの、皇后に「とんでもないこと」と言われて断念したとあります。
保阪:昭和天皇はいつまでおこなっていたんですか。

原:最後までみずから祭祀をつかさどったのは新嘗祭です。一九八六(昭和六十一)年までということです。

保阪:十一月二十三日ですね。

原:はい。一九八七(昭和六十二)年に例の腸の手術があった。あれが九月でしょう。それ以降はできなくなったのです。

保阪:昭和六十二年といえば、二月に高松宮が亡くなっていますね。

原:昭和天皇は、数ある祭祀のなかで新嘗祭をいちばん重んじていたんですよ。あれはいちばんたいへんな祭で、「夕の儀」「暁の儀」からなり、夕方から夜中までかかる。もちろん入江や侍従たちはなんとか昭和天皇の負担を軽減させようとして、あの手この手を使って、「もういいです」と何度もいっているんです。「われわれがかわりにやりますから」って。でも昭和天皇はこれだけは聞かない。「暁の儀」をやめるところまでは妥協するものの、「夕の儀」だけはとにかく譲らない。どんなに寒かろうが、かたい畳の上でずっと端座して直なお会らいをしているわけでしょう。当然、足なんか痛くなってくるわけじゃないですか。新嘗祭が近づくと、天皇はふだんはソファに座って居間でテレビを見ているのに、座布団を敷いて座って見るようになったといいます。端座の練習までしていたんですね。

保阪:それにしても八十歳をすぎて、崩御の二年前まで自分で儀式をおこなうとは。高齢なのに周辺は配慮しなかったのですか。

原:ここでも昭和天皇と高松宮のあいだには確執めいたものがあったようなんです。天皇が晩年になっても祭祀にこだわるのは、皇后以外に高松宮の存在も無視できなかったことが、入江日記からはうかがえます。一九七四(昭和四十九)年一月三日の元始祭を天皇は休みますが、この日は高松宮の誕生日に当たり、天皇に会う習慣がありました。そこで高松宮は、天皇が元始祭を休んだのは前日の一般参賀の疲れが残っていたせいではないかと言ったというのです。ここには、一般参賀に疲れたぐらいで大事なお祭りを休んでいいのかという批判が込められており、天皇は大いに気にします。また一九七六(昭和五十一)年四月三十日には、入江が天皇に翌日の旬祭を代拝にするよう求めたところ、天皇は「あんまり急で昨日の誕生日のあとで疲れたのかと高松宮同妃が言つてもいかんから」と言ってこれを拒絶しています。昭和天皇と高松宮の間には、ほかにも当時、ぎくしゃくとした問題があり、天皇は入江にしばしば高松宮に言及しています。現天皇と弟の常陸宮にはそれを感じさせるものがありませんが、皇太子が祭祀にずっと出席しているのは、ほんとうに出席したいかどうかは別として、秋篠宮への対抗意識があるのかもしれません。

保阪:そうかもしれない。

原:しかし、それはそれとして、みずから祭祀を執りおこなうというスタイルと気魄は昭和天皇から現天皇に継承されていると思うんです。

保阪:いま、古希を過ぎてもというのは、すごいことですね。現天皇のもつ決意を感じます。
原:そうです。ぜんぶ自分でおこなっている。昭和天皇にもなかったことです。それを見なおそうという声は、少なくともあまり聞こえてこない。

保阪:あと十日たらずで平成十七年を迎えますが、一月三日には天皇は元始祭に臨むのでしょうね。もちろん、それは皇后もいっしょということですね。

原:ええ、いっしょに。

保阪:こういう分析をしていくと、いまのジャーナリズムでの議論は、祭祀というなかなか合理的には説明のつかないことを抜きにしての、表面的なものでしかないということになりますね。むずかしいことではありますが、もっと本質的な問題を探らなければ、天皇家の内実がわからないという感はします。

原:この問題に関しては、戦前と戦後に分けられないというか、戦前と戦後で断絶したどころか、きわめて連続性があり、しかも強化されているといっていい。その面を明らかにすることで、皇室内の母子関係も兄弟の問題も歴史の相のもとで、もっとよく見えてくると思うんです。(『昭和史七つの謎Part2』巻末対談を再録)